記念講演

憲法24条と憲法改正

改憲は私たちの暮らしをどう変える?


憲法学者・中央大学教授

植野妙実子

憲法「改正」の動向

今日のテーマは「憲法24条と憲法改正」という堅い話になって恐縮ですが、あまり気づかれないところをこの機会に考えていただけたらと思います。一応レジュメを用意させていただきました。(→文末参照)

「憲法改正」は安倍政権の時までは非常に盛んでしたが、福田政権になってから少し沈静化した感があります。しかしこれで終わることには決してならないと思います。多分、虎視眈々(こしたんたん)と憲法改正の機会を伺っている勢力があることを認識しておかなければと思います。

最近の憲法改正の動向としては、いま自民党と民主党が国会の中で論陣を張るというかたちですが、しかし民主党も憲法改正に反対ではなく、賛成という立場で進めているわけです。最近の憲法改正の動向としては、社民党や共産党を除いて、殆どの政党が賛成だということも踏まえておかなければならないと思います。
憲法「改正」の目的は?

それでは憲法改正の目的とはどこにあるのか。これは当然財界の動向や政界の動きを見てわかることですが、一番大きなターゲットは、安倍首相の時代に集団的自衛権の問題が生じ、集団的自衛権の見直しをするということです。そういうことから見てもわかりますが、実は「9条、平和主義」というのがターゲットになっているということは明らかなことです。

しかし憲法研究者は単なる平和主義と捉えているのではありません。憲法研究者も若い人が増えて、すべて同じというわけではありません。しかし70%ぐらいの憲法研究者は「単なる平和主義というのを日本は定めているのではなく、いわゆる永久平和主義というのを定めていて、第二次世界大戦の加害者として様々な行ったこと、同時に二度の原爆の経験や空襲による被害者でも加害者でもあったことの反省を踏まえて、強い決意のもとにつくられたのが日本国憲法である。従って二度と戦争は起こさないということが、前文と9条に定められており、他の条文でもそれを裏付ける永久平和主義が定められている」という見解です。

とりわけ憲法9条には、1項と2項の2つから成り立っていて、9条の1項は「国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄」というものを定めています。2項は「戦力の不保持、交戦権の否認」というのを定めています。
1項の「国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄」というこの書き方が、実は「侵略戦争の放棄」ということであって、今日では世界の十数か国が、もう侵略戦争はしないということを明らかにしていますので、その意味では平凡な規定ですが、侵略戦争はしないということは当たり前の認識になっています。

そして2項が「戦力の不保持、交戦権の否認」ということを明らかにすることによって、これがまさに「永久的に平和を維持する」といった決意につながっていると捉えられているものなのです。戦力の不保持と書きながら、なぜ自衛隊があるのか。これは“戦力”ではないと言うでしょう。しかし政府の見解としては、これは自衛のための“実力”というかたちに考えられているもので、戦力とは考えていない。戦力の解釈の見解の相違が、政府と憲法研究者との間にあるということです。

しかし政府の側でも憲法が制定された時には、9条の1項は“侵略戦争の否定”を意味し、2項があるからこそ“侵略も自衛も行わない”と明らかに言ってきたのです。時がたつにつれて政府の見解が“戦力は持てないが自衛のための実力は持てる”と変わり、それが今日の自衛隊なのです。

しかしながら、憲法改正の2004年をピークとした最近の改正案は、9条2項を廃止し自衛隊が軍として存在するという動きが出てきています。これは9条2項の足かせをはずそうとしています。従って憲法改正の目的というのは、明らかに9条の2項「戦力の保持、交戦権の否認」を改悪するところにあります。そして自衛隊が軍隊として存在し、さらには集団的自衛権を認めるということなのです。

そうなると当然、9条の2項が存在するが故にできないと考えられてきたことが、どんどん規制がなくなり、その一つとして徴兵制度も解禁されていくだろうと考えられています。例えば自民党の改正案には、軍事法廷を執行するという条文も入っていて、当然自衛隊が軍隊化すれば、軍事法廷が開かれるのは当たり前になります。そうなると軍事法廷の対象は誰なのか、自衛隊員だけか、それとも一般の市民も軍に反対するようなことを表明すると、そのような場所で裁かれる可能性もあるわけです。
9条が変わると

自民党の新憲法草案を読みますと、9条を一つ変えるだけでいろいろなところに大きな変化が現れてくることが示されています。まず人権保障が規制され、制限されるようになります。今の憲法のもとでは軍隊を想定しておりませんから、例えば命令によって突然人権が規制されるようなことはありません。しかし軍隊が出来れば、当然、軍の仕事に応じて人々の権利の規制も、正規の手続きをとらなくても出来るようになる。これは大日本帝国憲法が戒厳令を認めていたことにもつながる問題であるということになります。

さらには宗教についての考え方も変わってきます。現行憲法の中では、いわゆる政教分離というものを厳格にとらえていますが、こうしたものが厳格でなくなります。戦争が起きた時に、国を守るために死んだ人をどうやって守るのか、という話につながってきます。国家がある種の宗教をバックアップすることになれば、当然ある宗教のもとで他の宗教の自由は侵害されることにもなる。宗教を信じていないから関係ないと思う人もそうではなく、ある種の宗教が強制されるとことにもつながっていくのです。

安倍前首相の「戦後レジュームからの脱却」は非常に危険な意味を含んでいます。すなわち日本国憲法というのは、第二次世界大戦の反省の上で作られているにもかかわらず、反省をチャラにしてしまうというのが、戦後レジュームからの脱却の真の意味です。若い人が“自分たちがやったことではないのに、いつまで責任をとらされるのか”と言いますが、そうではなく、日本という国が何をやったのかということの罪になるのです。日本人である限り、日本軍がやったことの責任はきちんと取らなければならない。

これはドイツもイタリアも同じことです。ヨーロッパにおいて、ドイツという国のイメージは一種固定したイメージなのです。ヨーロッパ連合の確立のために、ドイツが一生懸命やっているのは、こうしたイメージ払拭し新しいドイツになっていくためなのです。

ヨーロッパ連合は、まとまって平和を打ち立てるということが、もともとの目的ですから、こういう平和的なヨーロッパ連合をつくっていくために、力をつくしているという現われです。日本もアジアにおいて、平和国範=平和を推進する国であるという証のために、日本国憲法が存在しているのだという大きなメッセージを、世界に発信するということになると考えておかなければなりません。

9条と関わる24条の「改正」

さて、24条が改正の対象ということはどういう意味を持つのかと思われるかもしれません。実は9条との問題とも非常に深く関わっている問題です。なぜかといえば、例えば軍隊ができ、軍隊を維持するために徴兵制をとるとなるとき、戦争が起きた時に家族の誰かが戦争に行く、そうするとその後をどうやって守っていくのか。これは第二次世界大戦の時にも明らかであったように、一種の役割分担が起きることになります。つまり片方では戦争に出て行く男(女もそうなるかもしれません)、そして片方ではその家庭の留守を守っていく女、そういう図式化が再び想定されているのではないかということです。

そうした意味では「家族条項」、憲法では24条に書かれておりますが、その「家族条項」も一緒に改正しようということは、これは9条の改正とも深く関わっています。しかし、それにとどまらず、最近の政治的・社会的な動きとして、24条そのものを見直すという動きがあるということは、多分、学校の中でも、あるいは幼稚園・保育園でもあるでしょうし、実際に教育基本法の改正の中でも議論されていることが明らかになっています。

ベアテ・シロタ・ゴードンと男女平等

では24条に何が書かれているのか、1項は「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦は同等の権利を有することを基本として、相互の協力により維持しならなければならない」と書かれております。2項は「配偶者の選択、財産権、相続、住所の選定、離婚並びに婚姻および家族に関するその他の事項に関しては、法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならない」と定められています。

1項は“結婚のあり方などが男女が同等の権利を有することを基本とし、相互の協力により維持されなければならない”ということを各個人に対して言っているのです。2項はこれに対して“結婚のあり方や家族に関する事柄を法律に定める時は、個人の尊厳と平等に立脚して定めなければならない”と言っていますので、これは個人の注意を喚起すると同時に、立法に対して家族の事柄や婚姻について定める場合には、こういうことについて考えておかなければいけないということです。つまり立法府を縛っているということですね。立法府は議会です。

24条の規定というのは、そもそもの発案はベアテ・シロタ・ゴードンさんという女性です。当時のGHQの中の民生局にいて、その民生局が中心になって憲法草案のもとになるものをつくりました。“GHQがイニシアティブをとって憲法の草案をつくった、押し付け憲法である”ということが言われていますが、けっして押し付けたわけではないのです。

もともと日本の戦争の終結は、それをきめた事柄にあるわけではなく、それに由来して、日本は民主的な国家、平和的な国家をつくらなければいけないということが約束されていたわけです。ところが日本の側が、民主的な国家や平和的な国家をつくる証としての憲法をつくることに消極的であった。その理由は天皇制をどうやって維持していくかということにこだわったからです。そのためにその約束を決めたポツダム宣言をなかなか履行しない。そうすると戦争状態がずっと長く続くということで、早く日本が戦争を反省して独立国になるように、その基礎をつくるための憲法を、このように民主的に平和的に育てたということを示す必要があったのです。

日本の政府が消極的であったのに対して、アメリカのほうがその基準を示したのが、憲法草案のもとになるGHQの草案です。その草案が示されてから、日本の側も修正したり独自の法案を入れたりしてつくられました。決して押し付けられて憲法をつくったのではなく、もともとポツダム宣言を受諾して、戦争を終結する時に、約束したことをやらなければいけなかったのです。

ベアテ・シロタ・ゴードンさんはいまでも存命で、もと日本に住んでいて小さい時から日本の女性をずっと見ていました。日本の女性の状況は問題である、これでは気の毒だ、ということで、ぜひとも憲法に24条の条文を入れたい。24条というのは、家庭の中においても男女が平等で、お互いに協力してやっていくという、女性の権利を家庭の中に明らかにするという気持ちを持っていました。

彼女は憲法に従って民法も前面改正されるということがわかっていました。しかしもし憲法にこの条文がなければ、また男達が民法をつくる時に、今までと同じような日本の女性の状況ができてしまうだろう。つまり家父長制のもとで、戸主権や家督相続、父権(妻に対する夫の権力)や親権(子どもに対する親の権力)、つまり父親が家族を支配することがまた行われてしまう。だからこの条文を入れておけば、必ず民法ができる時に憲法によって縛られる。そう思って苦労してつくった条文です。

議論を呼んだ「法の下の平等原則」

当然、この24条は憲法制定の時に大きな議論を呼びました。14条、24条は平等に関わるところです。14条が「法の下の平等原則」というのを定めていますが、これは非常に大きな議論をよびました。大日本帝国憲法においては天皇主権であって、身分や階級によって縛られた生活をしていました。大日本帝国憲法は「平等原則」を持っていません。だから平等という観念は非常に受け入れがたいところがあったわけです。

一つは、これまで万世一系の天皇制を支えていたのは家制度であって、この24条の条文は家制度の解体そのものに関わる条文だからです。これは当時日本がこだわっていた国体の破壊を意味するという危惧からです。国体というのはいわゆる国をあらわしているもの、国そのもの、シンボルとしては当時の天皇であったわけです。

二つ目は、これまで男と女は異なるものということを前提にして、家庭の中の男女の役割分担を考えています。それを根本から否定し、家庭の中の男女の平等を明示したことです。24条の2項には「個人の尊厳と両性の本質的平等」というのが書かれています。この本質的平等は英語でエッセンシャル・イコーリティという言葉ですから、本質的平等、ほんとに平等という言葉で、そのままの意味でしかないのですが、この「本質的平等」ということを“男女は違うけれど平等として扱うということで了解しましょう”という論議が交わされているという記録があります。いかに男女を家庭の中において平等に扱うことに、男性の側から非常に疑問が出されて、理解できないことだと考えられていたかが伺われます。

このような制定当時の傾向もあり、24条の意義はあまり認められてはいませんでした。せいぜい24条の1項から「婚姻は両性の合意のみで成立する」「婚姻の自由」というのがここから引き出されるというのが考えられる程度で、特に家庭の中のことは、実際に家庭をつくっていく男と女の話し合いによる部分が多いので話し合いに任せる。従って平等のあり方とか、個人の尊重のあり方というのも、話し合いの合意のもとで認められればそれでよしとする。すなわち24条1項は宣言的なものであるという考え方が非常に強かったわけです。

さらに1項は、国家の義務というかたちになるわけですが、これは国家のほうで参照しながら、こういうかたちで定めなければいけないということですが、9条のところでも言いましたように、解釈が問題になりますので、平等ということを厳しく解釈するのか、それともゆるやかに解釈するのかでは、当然開きがでてくるということになります。

24条の再発見

そこで24条が大きな意味をもっているということがあまり考えられず、今日まで来ていたわけですが、1980年代以降から徐々に変わってきました。なぜなら、一番大きな事柄は「女性差別撤廃条約」が国連で1979年に採択され、85年に日本で署名・批准し、日本国内においても大きな影響力を持ってきました。同時に24条にこんな素晴らしい条文があったのではないかと考えられるようになりました。

その大きな点は何かと言うと、第一に、それまで男女平等ということは当然14条の「法の下の平等」を規定している条文、それから24条「家族(家庭)生活における平等」を定めている条文、この二つの条文があっても、実は合意的差別という考え方において不適正であったのです。

合意的差別とは何かというと、平等というのは同じものを同じように扱うことに意義がある。言葉というものは言葉で扱ったほうが平等に通じる場合がある。つまり男と女は違うところもあるではないか、違っているのだから違いに従って扱っても、これは平等からはずれていない、とそういう考え方につながっていくわけです。これを合意的差別とよんでいます。

男と女の違いは一つ

でもここは大きな問題点が一つあります。では男と女はどう違うのか、この違いを幅広く設定してしまえば、異なる取り扱いをすべてに認めることになります。男と女の決定的な違いは何かというと、やはり「子どもを産むか、産まないか」になるわけです。

この決定的違いは何かと言ったのが「女性差別撤廃条約」であったのです。そこから日本国憲法の14条や24条の見直しが始まります。つまりこの女性差別撤廃条約の解釈に従って、決定的な違いは「子どもを産むか、産まないか」であり、それ以外の男と女の違いはない。

つまり社会的に活躍しようと、家庭の中でどういうことを担当しようと、男と女に違いがあるわけではなく、男も女も社会的に活躍し、家庭のこともやる。今日の育児休業法というのは“子どもを産む”ということに関して女性を保護するかたちですが、“子どもを育てる”ということに関しては男も女も担当しなければならない。今日では「育児介護休業法」ができていて、育児の時にも介護の時にも、男が休もうが、女が休もうが、どちらでもといいと考えられています。

女性差別撤廃条約を署名・批准してから、大きく日本の男女平等のあり方も考え方が変わってきました。14条に対しても厳しく考えることによって、労働基準法の改正が行われたり、育児休業法が作られたり、男女雇用機会均等法がつくられました。

そのもとになるものは何かというと、戦争中に行われていたような「男女の役割分担」という考え方を廃するということです。社会的に働くのは男であって、女が家庭を守るという考え方ではなく、それぞれの能力に従って、やりたいことをやればいいことですし、家庭を築く時には家庭の中の状況によって、専業主婦になる人もいれば、共働きで働く人もいる。そういう個々の家庭のあり方を考えればいい。しかし、基本は男も女も社会的にも活躍し、家庭でも男女共に担う、という基本が確認されています。

このような14条や24条の見直しが1980年代の半ば以降から行われていき、男女共同参画社会基本法というものもつくられてきたのが今日の状況です。判例においても、24条を根拠にして活用されはじめ、これによって判決を出すところまでは行っておりませんが、これが根拠となるのではないかと援用されたりしています。例えば24条の1項から婚姻の自由や、家族が一緒に住む権利、通常の家族生活を送る権利なども認められるのではないかということが話されています。

“戦争が出来る国家”の体制作り

さて、この「24条の改正」で、どのようなことが話されているのか。これは重要な問題点になります。例えば、自民党の憲法改正調査会は、当初、憲法改正プロジェクトチームというかたちで論点整理をしています。その中で話された事柄は、国家の責務として家族を保護する規定を設けるべきである。この義務というのは国の防衛や非常事態における国民の協力義務とか、公共的責務というようなものと並べて、こうした義務が論じられています。

見直すべき規定の一つとして、24条があげられ「婚姻・家族における両性平等の規定というのは、家族や共同体の喚起を促す観点から見直すべきである。今日では個人主義が戦後のわが国において、理解されずに利己主義というかたちになっている。その結果、家族や共同体の破壊が起きている。従って家族や共同体における責務を明確にする方法で新しい憲法を考えるべきだ」ということが論じられています。

さらに憲法改正の議論の論点整理で示された事柄はすすんで、どういう家族が理想的な家族かということに関して「よい家族こそよい国の礎である。憲法に家族を強調すべきである」と家族が国家の基本であることを強調しています。だから24条を見直すべきであるということですね。これが憲法改正のポイントとして現れています。ここでも同じように憲法改正の一つのポイントとして義務というものを儲けています。その義務の中には家族を大切にするということも掲げられています。

もう一つ変わっている事柄は、「公共」ということを非常に重視しています。公共とはお互いを尊重する仲間のこととして、三つの事柄が掲げられ、他人を尊重することから始まる公共、家族が一番小さな公共、国家はみんなが支える大きな公共、ということが掲げられている。これを見ますと、公私の混同があり、みんなが支える公共という中で、結局すべてが国家作りや国家の体制づくりに参加していかなければならないということです。こうしたことは全体主義につながるもので、戦後の日本国憲法ができた時に「全体主義や軍国主義を排する」という大きな目標があったことからかけ離れていく。つまり元に戻ってきたという危険性があることを考えなければなりません。

改憲の背後にあるもの

改憲の背後にある考え方として「現行憲法は個人を優先しすぎている」「家族は国家の基本である」「養育や扶養の義務を明らかにする」というような改正の背景が明らかにされています。しかし改正の背景に挙げられている事柄は、今の憲法とはまったく対立する考え方です。

第一に「個人主義を考え直そう」というのです。これは民主主義の破壊概念なのです。個人主義というものは利己主義でもわがままでもありません。個人主義は個人を基本として考えるということです。全体で何かを決める時、個人個人の決定が元になるものです。従って民主主義というものは個人の考え方を基本としているわけですから、個人主義を排斥しようとすることは民主主義を排斥することになります。非常に危険な考え方です。

憲法の13条に「全て国民は個人として尊重される」という言葉が入っています。この個人の尊重ということは非常に重要なことなのです。個人の尊重があるからこそ、歳をとって病気になってもちゃんとした医療を受け、生きる権利があることは、個人が尊重されてこそ出てくる考え方です。

なぜ個人は尊重されるべきなのか、私たち人間は唯一、様々な歴史を持ち、歴史を認識し、歴史を反省することができる動物です。つまり考えることの出来る人間であるわけです。たとえ歳をとったとしても、その人の存在が他の人に影響を及ぼしていく。こういうおじいちゃんがいた、おばあちゃんがいた、と語り継がれていく。私たち人間こそが歴史を紡いでいく存在だからこそ、お互いに尊重されなければならないのです。個人の尊重を憲法で排すことになると、これは非常に大きな過ちを犯すことになります。個人こそが優先されるべき存在なのです。

さらに「家族が国家の基本である」ということは、家族は誰から成り立っているのかということです。家族を構成するのは個人個人です。家族を大切にするのが国家の基本であるならば、その家族をつくっている個人を大切にすることが国家の基本であるわけです。抽象的な家族、抽象的な国家というものが重要だということではなく、それを構成している各個人の具体的な存在こそが大切なのです。
「養育や扶養の義務を明らかにする」ということは何を意味するのか。本来養育や扶養というのは、当然個人もやりますが、出来ない部分は国家がやるべきなのです。そのために社会権というものがちゃんと書かれていており、生存する権利は国家の義務であると掲げられています。

しかし養育や扶養の義務を家族の義務であるとするとどうなるか、各家族が全部負担をすることを意味します。従ってこれは社会のあり方がまったく変わってしまい、国家が責任を負わないことを意味します。それは当然今日の安上がりな国家として、国家財政をどんどん収縮し、個人の負担を大きくするという考え方に結びついていきます。ですから改正の背後にある考え方というのは、民主主義の基本を揺るがすような考え方であり、国家というものの存在理由を失わせるようなかたちになっていることを考えておかなければなりません。
このことに先立てて読売新聞が2004年の5月、家族条項を打ち立てるべきだという憲法改正案を発表したりしていましたが、大きな批判が浴びせられました。2004年11月頃から「ストップ24条! 憲法改正」などという大きな市民運動が沸き起こりました。自民党が新憲法草案を示した時には家族条項は改正の対象にはならず、そのまま残っているかたちになっています。しかし今後、第二、第三の改正が当然予想され、24条もターゲットにあがってくるだろうと考えられます。

改正教育基本法と家庭教育

さて、憲法改正の問題は一定程度下火になったということですが、他方で教育基本法はすでに改正されてしまいました。この改正の中でも同様に、家庭のあり方が非常に議論されました。それまでなかった新しい教育基本法の10条に「家庭教育」が入り、11条に幼児教育が入っています。10条には「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身につけさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」。2項が「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない」となっています。

その時に議論されたものは何かというと、1項の「父母その他の保護者は・・・」ということに対して、家庭教育の責任を父母・保護者に負わせることになり、結局しつけのできていない子どもは家庭が悪いからということになり、犯罪者がでればその家庭が悪いということになります。

でも子どもは家庭の中だけで育つのではなく、社会との関わりの中で育つものです。社会の構造上のひずみが子どもに現れてくるのです。それが非行であったり、犯罪であったりともなるわけですから、けっして家庭だけが問題ではないのです。結局家庭教育を重視するということは、家庭に一つの責務を負わされることになっていく。結局改正されました。11月頃に文科省から解釈本が出ますので、一体どう扱われているのかを注意していきたい。

家庭教育の重視ということになると、今日、格差社会ということがさかんに言われるようになっていますが、家庭の教育力というのはそれぞれの家庭において違うわけです。余裕を持って子どもを教育できるような家庭があるかもしれませんが、厳しい生活をして子どもにいろんなしわ寄せがいっている家庭もあるでしょう。しかしそういう家庭が一概に教育力のない家庭とは言えないですが、たまたま子どもの非行が出た時には、家庭の教育力のなさということが指摘されたりします。このように家庭の教育力が重視されていきますと、各家庭のあり方の違いというのが認められなくなってきます。

もともと新しい教育基本法というのは、公共心の重視というかたちで、公共の精神や道徳の涵養とか、はては郷土や国を愛する心を重視するところに問題がありました。このように将来に汚点を残す基本法の改正が安倍内閣のもとに行われてしまいました。しかし、解釈によって、現行の憲法がある限り縛りをかけることができると考えられます。

24条と家族条項

24条があるにもかかわらず、一方では、「憲法の中で家族条項がない。なぜなら、“家族は保護される”という言葉が入っていない」というような論調が結構強く言われています。しかし、家族の保護というのを入れなかった理由があるのです。なぜかというと、家族を保護するというのは、戦争中に見られたような家族制度の保護につながる危険があるからで、だからこそ家族の保護というものは憲法の中に入れなかったのです。

従って日本国憲法には家族条項がないのではなく、24条という家族条項を持っているのです。家族を保護するもう一つの意味として、家族を国家が保障するという意味での条文はないと言われます。しかし24条の後には25条が「生存権・社会保障」を規定しています。すなわち社会保障を受ける権利の中に、例えば家族手当を受ける権利というものが当然入ってきます。この社会権を保障する条項において、家族の保護がカバーできると考えられるものです。24条はけっして家族を軽視するものではなく、例えば家庭の中での暴力=DVの防止であるとか、児童虐待の防止であるとか、高齢者の虐待防止であるとか、障害者の虐待防止など、それぞれの権利の保護の根拠になるものです。

自民党や読売新聞などは、共同体としての家族の尊重や家族の保護とは何を指しているのでしょうか、それは結局家族制度の保護を言っているのです。改正側は他の国の憲法では、家族を保護するという条文があると言います。でもよく読んでみますと、家族の権利を保護すると書いてあるところが多い。家族の権利、つまり家族を構成しているそれぞれの人の権利を保護するということであって、家族制度を保護するとか、家族を一体として保護するという抽象的な書き方はしていません。その意味では十分に24条と25条でまかないきれるものであります。

憲法改正案に見られるもう一つの動きとして「公共概念が不透明である」ということです。公私というものはそもそも区別されるものであって、だからこそ私的な分野におけるプライバシーの保護というものがうまれるわけで、DV防止、児童虐待防止の時にも、家族の中に警察が入ることのこわさを十分認識した上で、必要な規制をすることがとられているのです。そういうことを無視しては、家族の中に警察がどんどん踏み込んで個人のプライバシーはなくなります。だから公私を分けて考えることは必要なことです。家族も公共を担い、個人も公共を担う、担う結果としてはどういうことになるかもしれませんが、やらなければいけないということではなく、あくまでも個人は個人として行動する。それが結果的に公共のためになるということです。

家族を保護するという名目で、家族制度の保護が問題になってくると、今度はよい家族とは何か、つまり理想的な家族とは何かということになります。結果的には多様な家族への配慮が見られない。現実に人生が長くなり、その間には離婚や再婚などで複合家族が出てきて、それぞれの家族が尊重されるべき状況になっているわけです。
しかし、理想的な家族とか、こういう家族が国家を支えるということが強調されると、理想的な家族は尊重されるが、そうでない家族は排斥するということにもつながりかねない。家族の問題は私たちの自由や自立と関わる、民主主義の基本とも関わる重要な問題点を含んでいるのです。家族制度の自由、これは家族をもたない自由、持てないという人もいるかもしれない、そういうものも含むものである。そういう自由は尊重していかなければいけません。

“家族論議”が意図するもの

最後にまとめにかえて、家族制度の見直しということは、憲法体系の全体に関わる非常に重要な問題点ということになります。「9条、平和主義」の改悪と、天皇制の制度的転換とも関わる、つまり天皇を元首化し、もっと敬うことを国民に強制する動きが他方にあることとも深く関わっています。

そしてせっかく廃止された性別役割分担を前提に、様々な仕組みが考えられてきた性別役割分担を再び持ち出してくることにもなりかねない。最近のジェンダーフリー・バッシングとも関わるような問題です。家族のことに関して憲法改正の中で必要以上に語っていくということは、実は私たちの自由が危機的状況であるということができます。

憲法改正や教育基本法改正の中で語られている家族に関する議論が、国際基準である女性差別撤廃条約に照らして点検する必要があるということです。24条が定めているということの主旨を広めることこそ重要な問題であります。

最後に申し上げたいことは、24条は、男女ということを前提としている、つまり男と男、女と女が夫婦であることは認めていないということです。国際情勢では家族の変容としての一つに、女同士、男同士の結婚を認めていくべきではないかということに対しては、24条は有弁に語るものは持っていないことになります。

このことが問題になったら、一つの解決として、13条が個人の尊重を認めているのでそういう結びつきも考えましょう、というかたちになっていくのかと思います。
                
 (まとめ・文責/竹森絹子)