記念講演

―戦後60年、平和憲法とともに生きて―
どうなる日本、私たちの暮らし



埼玉大学名誉教授、NPO国際ネットワーク代表
暉 峻 淑 子


私たちはだまされた

日本が敗戦でどん底に突き落とされた時、みんな異口同音に言ったのは、「私たちは騙されていた」ということだった。アジア民族の独立のためにとか、アジアの人々と共存共栄をしていくための戦争で“神風が吹く”といういろんな形で私たちは騙されていた。当時は小学校を卒業した人がほとんどで、中学まで進学できる人は10数%しかいなかったから、騙されることは仕方がなかった。いまは90何パーセントが高校を卒業して英語も読めるから、騙される人はいないといたが、今度の選挙の結果は、なんでみんなは騙されているのかと思ってがっかりした。
得票率を後で見ると、与党が53%、野党は47%を取っているが、議席数では小選挙区制のため、自民党が多くの票を取ってしまった。しかし野党の中には“憲法9条を戦争ができるように変えよう”とする民主党も入っているので、8割以上が改憲派に投票したということに私は悲しくなった。
構造改革と言って、郵政民営化をしないと日本の将来はないという景気のいいキャッチフレーズにみんな騙されたことは、結局考えることを放棄したということである。それは怖いことだと思う。いままで民族紛争が起こってきた国をずっと支援して、その国民と接してみると、国家が破たんする(ブッシュの言葉によると“ならず者国家”)時は同じパターンがある。それは国民が考えなくなるということである。自分の家族は仲良くしているが、家族以外の第三者、社会のこと地域のこと学校の教育制度とか、税金のことなどを考えなくなるところに、パッと小泉的な威勢のいいことを言う政治家が出てくる。ヒットラーの時もそうだったが、景気のいいことをいう強い指導者にまかせすればいいということである。
いまの選挙の宣伝は広告会社が深くからんでいる。民主党が負けた時、新聞は「民主党は真面目で実直な岡田カラーを出す戦略を立てた広告会社の雇い方を間違えた」と言った。いまは選挙の宣伝も広告会社が練る時代。ユーゴスラビアの難民の紛争が起こった時、アメリカのラダフィンという有名な広告会社が、セルビアの大統領に、国連や国際社会に対する広告をまかせなさい、そしたらあなたの国は勝つからと言ったが、セルビアは貧乏だったので、私たちは正しいことをしているから必要ないと断った。しかし敵であるボスニア・クロアチアの政府はその広告会社を雇った。国連でどんな演説をしたらいいか、どこに難民を持っていったらいいか、捕虜収容所というナチスのような言葉をどう使ったらいいか、すべて広告会社が設定したという。これは「戦争広告代理店」というNHKで放送されて、本にもなった。



小さな集まりから始まる

日本もそうである。だから騙されないということは大事なことで、そのためには新聞や本も読んだほうがいいし、それぞれの経験を語り合うことが大事である。一人だと騙されても、大勢集まって話し合うと分かってくる。昔から「三人寄れば文殊の知恵」というが、30人、50人になればもっといい知恵が出て考えることが出来るようになる。だからどんな小さな集まりでもいい、まず集まって、私たちの周りにはこんな人がいるということを知る、そしてそれぞれの人の考えをお互いに膝を突き合わせて話し合う、そこから民主主義は始まってくる。
今度の選挙で騙されたということは、敗戦の時の状況にとても似ている。戦争が終わった時、私たちはうれしかった。憲法が出来るよりも前に、私たちの気持ちは“戦争がなくなってよかった”“平和になってよかった”ということがまずあった。だから私たちは新しい憲法と教育基本法のもとで、今度こそ騙されない人間になれるというのがうれしかった。それまでは男も女も20代か30代で天皇のために死ぬのがうれしいと思い込まされていた。死ぬための人生で私たちには明日がなかった。だから明日から生きていてもいいという世の中になった時、それだけでほんとにうれしかった。だから平和憲法はみんなに歓迎され受け入れられたのだ。押しつけられたどころか、平和憲法よりももっと前に私たちの気持ちは、もう戦争はこりごり、というのが本音だったのである。


郵政民営化でよくなる?

今度の選挙で、郵政民営化が自分たちの生活をよくすると思ってみんな投票したのだと思うが、公社になってから、郵便局の人たちの給料は独立採算制になっていて、税金から払われていない。自分たちの切手の売り上げなどで払っているのだから、民営化されても財政がよくなることはない。郵便局に私たちが預けたお金は、簡保の資金で国債をジャンジャン買わせていたわけでそこは残すと言っている。
私たちが預けている330兆円というお金が、民間に回るからいいということも理由としているが、民間も銀行もいまは資金はあぶれている。だから利子が0.00・・なのである。資金が足りないのだったら利子率はもっと上がる。資金は商品の需要供給と同じで、借り手が多ければ利子が上がる。今借り手が無いから利子が0.0025になっているのである。そこに郵便局に預けた資金が流れていくといっても借り手が無い。借り手は誰かというと、株価を吊り上げたりする主としてアメリカの資本、いま世界中を駆け回っている短期の投機資金、ギャンブルである。その資金が入ってきて、新生銀行みたいに安く買って、1年も経たないうちにすごい利益を上げる、そう予測されている。
私たちにとっての郵便局は、破産することのない唯一安全な預け先で、破産しない、何年たっても簡保の年金や医療保険は必ず払われる、そういう公正なところにお金を預けたいという庶民の切実な願いだった。預ける金額も1千万以上は預けられなかったし、そういうものを全部叩き潰して何がいいことがあるのか。


どうなる私たちのくらし

私たちの暮らしは転換期に来ている。自分の生活をチマチマ節約しても、私たちの生活は大海を航行している船で、自分の船の中だけ心配しても、海が荒れて船がひっくり返ったらおしまいである。だから海の状況を知って嵐に合わないようにしなければならない。そこを考えたら、社会のこと、私たちの税金の使い道にうかうかしてはいられない。
年金はいま年々0.9%ずつ減っている。15%は向こう何年間に年金を下げると言っている。年金の掛け金を払っている若い人も年金があるかどうか分からない。しかし、国会議員の年金を廃止して違うものにするというそれ一つでも国会ではまとまらない。つまり国会議員はいまの既得権にしがみつき、国会議員の年金は国会が決めるので、議員たちがあれこれ文句を言って、今のままにしておけばそれでいいわけである。年金は収めない期間が3、4年続けばもう権利はなくなるが、国会議員は飛び飛びでもいい。合計10年払えば月々30何万はもらえる。中曽根さんは確か87、8万で、私たちは25年以上掛けないと、国民年金の僅か5、6万でも貰えない。
たくさんもらえる国会議員が、やれ年金を下げろとか、老人の医療費が増えるから医療費を押し上げているのだとか言うが、老人になれば体は弱る。若い人や子どもでも弱い人は医療費をたくさん使う。持病のある人も同じ。この世に生まれたらゆりかごから墓場まで、質素であっても人間の尊厳を冒されない一生を送ってこそ愛国心は出てくる。いま医療保険も滞納するとすぐ保険証が給付されなくなっている。
介護保険にしても、いまどこから上を大きな税金や保険料を掛けているかというと、年収200万が限度である。もちろん生活保護の人はそれなりの免除がある。年収200万以上というのは月6、7万で、そこから医療保険をとられて、国民健康保険料は払わなくてはいけない。介護保険は天引きされて、家を持っている人は固定資産税もがっぷりくる。住民税も高くなっているし、所得税もとられる。こういう状況にある人たちに消費税を2桁に上げようとしている。
私の『格差社会をこえて』をお持ちの方は、表紙の裏のところに、どれだけ私たちに大きな負担がかかってきているかを見てほしい。たとえば税金というのは、昔はお金持ちからたくさんもらい、貧乏な人からは税金をもらっていない。もらってもほんの少し、そういう制度になっていた。
累進課税と言うが、所得税は12段階に分かれていて、年間5000万円以上収入のある人からは、税金は60%も国は取っていた。私はそれでいいと思う。人間の胃袋の大きさは決まっていて、ご馳走を食べればコレストロール値も上がるし高血圧にもなる。車ばかり乗り回していたら足は弱って糖尿病になる。もちろんお金はある程度はあったほうがいい。豊かになるのはいいが、それを越えると逆に悪くなってくる。
労働科学研究所というところが綿密な家計調査をして、どの辺まで所得が上がれば、みんなの体も文化活動もよくなるかと調べている。それも一定の限度があって、それより越えると逆に健康も害われ、健全な文化活動もしなくなる。だから人間はほどほどのものがあるというのが一番いい状態である。5000万円以上収入のある人には60%収めてください、その税金を子どもたちの教育に使いましょうとか、病気の人のために使いましょうということに回していたから、民主主義社会というのは健全に機能していたわけである。
ところが現在はどうなっているか、たった4段階である。ついこの間の長者番付で、1年間に100億円稼いだ人がいた。100億円額に汗してせっせと土でも耕したり、ものでも発明して100億円になったのであればまだしも、その人はどこにお金を投資すれば儲かるかというギャンブルのコンサルタントだった。今は最高1800万円を超えている人でも37%が最高税率だから、100億円稼いだ人も37億円納めただけで、1年で63億円をふところに入れたわけである。
それだけではない。高齢化社会になるから消費税を老人のために使うといって導入した。『格差社会を超えて』を今年4月に出したが、これを書いている時に総務省に、いままで国民から取り上げていた消費税は、全部でいくらになっているかと聞いたら、131兆いくらとか言う。ところがよくよく見みると、それと同額を法人税の軽減に使っている。だから名目だけだったのだ。


競争社会のすすめ

小泉内閣がすすめている路線は何か、二つある。一つは日本を競争社会にする。強いものはいい思いをしてもいい。競争に負けた人はほどほど、それどころか7年続けて、年間3万何千人の人が生活苦で自殺をしている。また同じ数でホームレスの人が各地に散らばってる。そういう人は放っておかれ、競争に負けた人は野垂れ死にして、自殺しても知らんぷり。勝った人には税金もおまけしてくれる。
大学でも、いろいろ発明したりする優れた教授や院生や学生が集まっている大学には何億円という補助金がくる。高校もそうで、ハイパーサイエンス高校という科学教育が高度なことをやっている高校には、1年間に普通の教育費+千何百万かの補助金がきている。英語教育を高度にやっている高校は4〜500万来ている。自治体もまたそうしている。熊本や鳥取に行くと、有名大学に何人入ったかを基準にして高校に補助金を出している。
しかしそれは逆で、学力が追いつかない高校にこそ補助金を出して、少人数でいきとどいた教育をするのが公的な自治体のすることではないかと言ったが、いまは競争社会だからと、中山文科相大臣はラサールという有名進学高校を出ているので、自分が競争に勝っているから競争はいいと信じている。どうせ社会に出たら競争社会だから、学校をもっと競争教育にしなければいけないと公的に宣言した。
朝日新聞の女性の記者が、高校生にどう思うかと取材したら、競争に勝ってどんな意味があるのか反問された。高校生のほうがずっとまっとうで普通の人間としての判断をしている。それを中山さんに言ったら、いまの高校生はひねくれているからと、どっちがひねくれているのかと言いたくなる。
トヨタは1兆円も儲けをあげている。トヨタ自動車の奥田会長はあらゆる政府の審議会に入っていて発言しているが、企業はいま社会保険の費用を半分払っている。年金の掛け金が所得の13%というと、6.5%は働いている本人が払っているが、残りの6.5%は企業が払っている。先進的な民主主義国はみなそうしている。スウェーデンでは本人は昔は1で企業は9、今でも確か4、6ぐらいである。それを払うのが嫌だから、すべての社会保障費用は消費税でと奥田さんは言い続けている。そうすると消費税は20何パーセントぐらい上げなければならない。ところがトヨタは消費税を1円も払っていない会社である。
そういう税のしくみになっている。トヨタ自動車は半分は輸出している。輸出するものには国は税金を掛けていない。それどころか、輸出する自動車は原料を国内で買っているので、そこに掛けた税金は払い戻している。だから原料にかかった消費税は払っているが、たとえば鉄板のような、それにかかった消費税は払い戻してもらっているから、結果としてまったく消費税は払っていない。その計算式があるので見てほしい。だから消費税を上げろという。
いまジュビリー2000といって、貧乏な国にお金を貸した国は、その国がお金を返すためにいつまでたっても自分の国の貧困を無くせないでいるので、貸した国はそれを免除する運動が国際的に起こっている。アタックという、日本にもアタックジャパンがあるが、貸したお金を返すことだけにすべてを使っていて、貧乏な人の教育も医療もできていない。アフリカなどの貧困国も、上1割のものすごい大金持ちは免除され、下の人たちは免除してもしなくても変わらないような貧困の中にいる。


経済成長率のからくり

だから上下が分解するというのは、その社会と国家が破滅するということである。「国民所得や経済成長率が上がってきて、景気が回復しつつある。これは構造改革が成功しているから」と竹中さんなどが言っているが、国内総生産とか国民所得とか経済成長率などは、その社会全体の経済を足し合わせたものである。
子どもの2クラスを比べればいい。上1割が100点ばかり取っていて、あとの子は20点か30点で、それを全部足し合わせると大きな数字になる。そういうクラスと、全体が65点か70点で、100点の人は1人か2人というクラスと比べてどちらがいいクラスと思うか。私は全体が基礎的な学力をもっているクラスのほうが、将来はずつと子どもたちが伸びると思う。だから足し合わせた数というのは、そのクラス全体のレベルを示すものではない。足し合わせた国内総生産とか、足し合わせた経済成長率というのは、貧乏人がいっぱいいても、1人か2人のビルゲイツが出てくれば、いくらでも大きくなるものである。そこをみんなは騙されている。
民主主義社会というのは、70点ぐらいの人が大勢いて、その人たちが意見をそれぞれ述べ合って、3人よれば文殊の知恵で、どうやったら子どもたちのためにいい社会になるのか、福祉が充実しより豊かでみんなが生きているのはいいことだと、自分のもっている能力を発揮できる社会が民主主義なのである。
数に分けてみたが平均点は上がっていないからやめると言っているが、少人数学級にするのは平均点を上げるためではない。子ども一人ひとりの個性に応じて、子どもの中に秘めている能力を引き出すために少人数学級はいいのである。先生と生徒の間の会話はきちんと成り立つ。荒れている子は“私を認めて”と言っている。出来る子ばかりを見ているから、荒れるというかたちで自分を主張している。
私は何十年か前に、まだ日本が50人学級などといっている時に、ドイツに行って何年か勉強したが、その時からドイツはもう小学校から高校まで17、8人学級である。1960年代に親と子どもがプラカードを持って、ドイツが二度とナチスのようにならない民主主義国になるのだったら、教育のクラスを17、8人にしてほしい。そうすれば教師も行き届くし、親の学問があるなしによって子どもに差別が残ることはないと。たからドイツの教育は行き届いているから予備校はない。そういうことは棚ぼたで出来たわけではなく、親と子どもと教師が一緒になって、大デモンストレーションをやったのである。
一番下のクラスに入れられた子は、多かれ少なかれ自分はだめだと思ってしまう。これは国際的に認められているが、子どもの時に自分はだめだと思った子は一生その気持ちを取り除けない。だから子どもにだめだと思わせてはならないというのが教育である。ピサという国際学力到達度テストで、フィンランドがずっと1位になっているが少人数教育である。その時の文部大臣の言葉がいい言葉で、「私の国ではどんな子どもでも、教育に値する子どもであるという信念に貫かれてやっている」。日本のように切り捨てたり、学区制を廃止すると遠くの受験校まで親はやりたがる。そうすると地域と学校の結びつきがなくなってくる。子どもにとっても友だちがまわりに居ない。あそこの学校はいいそうだと、親は浮き足立って偏差値のいい子が集まるから、いよいよもって偏差値の差別ができる。
前に日比谷高校が東大に入る子が多かったが、グループ別の方式にしてから校区を越えてくる子がなくなった。とたんに並みの高校になった。みんなが何と言ったかというと、先生が優れていたわけではなかったんだね、始めから偏差値の高い子が集まってきていたからそれだけのことだったのだ。出来る子は深く学んでいるかというとそうではない。ただ先に行くために浅くやるだけ。一番下のクラスに居る子は、どうせ理解力が悪いと思われているから教科書が終わらない。同じ教科書を使って半分ぐらいで1年が終わってしまう。
私は40年教壇に立っているが、出来る出来ないはきめられないことである。子どもの理解する神経の回路はいろいろあって、先生の説明する教科書と神経の回路が一致する子は比較的抵抗が無くいい点が取れる。しかしそうでない神経の回路の子どももいる。その子はどんなに頭がよくて素質があっても、点をとることに結びつかない。これは日本の教育の特殊性である。明治以来追いつき追い越せで、百科事典みたいな法則を暗記して、それも時間が早くやれる子はできると言われてきた。外国の学校ではいろんな個性の子に合う教育になっているのである。
だから日本の子はかわいそうだと思う。たった一つの教科書と指導要領の教え方に合う子だけがチヤホヤされている。どういう子かというと、創造的な活動が出来ない子である。言われたことを何の疑問もなくのみこんで答えれば○がもらえるだろう、先生に気に入られるだろうと、それに合わせて答える子だから、そういう能力の子は社会をどう変革していったらいいかとか、今までにないものを生み出すにはどうしたらいいかとか、そういうことは出来ない。今のエリート層を見てごらんなさい。自ら壊そうとは絶対にしない。
偏差値の高い子が優れていたら、どうしてバブルが起こったのか。どうしていまの不況がどん底に落ちたのか。それはみんなエリートがやったことである。UEJ銀行に金融庁が捜査に入った時、ダンボールの箱を隠すよう命令したのは一番上の人たちである。三菱自動車や雪印乳業の事件も上の人がやった。私はエリートは本当に頭がいい人ではないと思っている。与えられたものを何の疑問もなく器用にこなしていく処理能力はある。だけど考えて、いい判断をくだす人ではない。本当の人間の能力とは40歳代ぐらいにならないと分からない。


広がる格差社会

いま日本の失業者は350万人前後だが、これもトヨタや電機メーカーなども工場を中国やマレーシアなど賃金の安い国に移している。現地の労働者を雇っている数が日本の失業者の数とまったく同じである。だから失業している人は、その人が悪くて失業しているわけではない。日本の企業が儲けを上げたいために、人件費も安くて公害問題などうるさくないところに工場を移したために失業者が出てきている。だから本人の責任ではない。
それをよしとする政策をとっているのが小泉政権である。どうして社会の格差を広げる政策をとるのかと質問をすると、お金持ちに補助金を与えたり税金を安くしたりすると、お金を儲けるほど自分の懐にいっぱい入ってくるから、もっと儲けようという気になると言う。貧乏人の負け組みはパートや派遣やフリーターなど、不安定労働者が増えていて4割もいる。レストランやハンバーガーは7割である。その人たちは月10万円もらったらいいほうである。
派遣労働を使うと消費税をその分払わなくていいというしくみになっている。つまり派遣労働を国が推奨している。その人たちは社会保険も付けてもらえない。いつでも解雇自由である。10万円ぐらいの月給の中から、国民年金の掛け金を払ったり、医療保険を払ったりして、どうして若者が結婚したり子どもを生んだりできるのか。
今年の3月卒業した大学生で就職できているのは53%、あとは就職もできていない。電気販売店とか、ハンバーガーにアルバイトの続きで行っている。親は何のために何千万円もの累積の教育費を投じたのか。そういう子どもは親の家にタダで居させてもらって、10万円足らずのお金で自分の洋服とかお昼のご飯代は払っているだろうが、結局親がかぶっている。その親は右肩上がりのバブルの時にいたるまでは貯金も出来たが、いま総務庁の退職者の家計調査を見ると、5年前は貯金の取り崩しは1カ月2万円ぐらいだったが、この2、3年の間に6万円になってきている。親の寿命が長いのに子どもに食べさせている。
だから日本の国はいわばアメリカ並みになる。ヒスパニックの人たちは保険にも入れなくて貧乏な暮らしをして、時々暴発して掠奪とか放火とかを起こしている。洪水が起きたニューオーリンズを見ると、老人も洪水の中に放ったらかされていた。それでも何人かのビルゲイツがいればいいというのがアメリカの経済政策である。軍事費も4割の税金をかけている。日本が4、5年前までは、企業は自衛隊が外に出て行くことは言っていなかった。いまはなんで言うようになったかというと、海外にたくさん工場を置いているから、賃金の安い国は社会状態が安定していないから、安くても働いてくれる人がいる。そこににらみをきかせる。
イラクのことでも大量破壊兵器が無くなったなどといっているが、結局アメリカが狙っているのは、アメリカが作ったものを全世界の人が商品として買ってくれることなのである。アメリカの大企業はソ連と東欧圏の社会主義国が崩壊して自由に資本が入っていけて、商品を売り込めるという人口が6億人増えた。中国の場合は10億近くいるわけで、自分たちの資本が自由に入って行って、自由に買ってもらうことに邪魔になる国を片っ端からいろんな因縁をつけて壊している。イラクはアラブではなくて、あれはアブラだとみんなが言っている。結局は日本もあやかりたいわけである。
こんど投票した人は、以後4年間半数以上の人たちは国会に居座る。そうしたら憲法の改正でも教育法の改正でもすぐ出来てしまう。労働問題も不安定労働者を増やすという政策になる。昔は派遣というのは、派遣労働を使っていいという労働の種類は特殊に決まっていた。いまや単純な生産工程の中にも使っていいことになったから、トヨタの生産現場も派遣の人がたくさん入っている。そういう政策を次々に作っていくのがいまの政府である。


憲法9条と戦争を阻止する「2項」の力

自衛隊も今度9条の1項は残すが、2項は軍隊として認めて出て行けるようにすると言っている。1項があっても何もならない。1項は1928年のパリ条約で、日本は批准している項目である。いままで2項があつたから武力で解決しない、国の交戦権はこれを認めないという、憲法は何々できるというのが多いのだが、してはならないということをきちっと言っているのは9条の2項である。だから1項があっても戦争を阻止する力にはならない。なんで2項をつくったかというと、やはりヒロシマ・ナガサキの犠牲が大きかったと思う。つまり武力で解決するという極限は核である。いまはそれにクラスター爆弾や劣化ウラン弾や地雷などがプラスになっているが、武力で解決する時には必ず市民を巻き込む。しかも子どもや老人とかそういう弱い人たちを巻き込む。
2項をなくすというのが一番大きな改憲のゆくえである。武力を認めるようになると、社会はどうなるかというと批判は許さない。公的機関は情報公開どころか、自衛隊はいちばん情報を秘匿している。外務省も国の機密がとても多くなる。
また、何々のためにというのが出てきて、お国のために社会保障はがまんしろとか、いま障害者の共同作業の補助金さえ切っているから、障害を持った人も助けない。人権を尊重することも軍事国家になったらだめになる。男女平等もだめ。現実と憲法は乖離(かいり)していると言うけれど、乖離しているものを努力によって憲法の理想に近づけていくのが憲法なのである。国にそれを破ってはいけないことを命じているのが憲法である。男女平等も憲法ができた時にはものすごい乖離があった。結婚退職などがあり25歳で退職させられていたが、それを憲法によって埋め続けて、やっと均等法というところまできた。だから憲法が現状に合わせていたら、銃も出回っているから、もう銃はいいことにしようとなりかねない。
憲法というのは私たちが近づくべき理想である。これを崩してしまう、そして9条の2項をなぜこんなに目の敵にしているかというと、日本は周辺事態法とか有事法制とか刻々とそうなったが、一つ残っているのが軍事に対して、民間の人を無条件に協力させることには法律的になっていない。民間の人は例えば兵隊の輸送でトラックが足りないからクロネコヤマトに運べといっても、民間は拒否できる権利をもっている。日本航空でも自衛隊や武器を載せたくないと言っているが、2項がなくなったらそうはいかない。民間もハイハイと言って軍事に協力しなければいけなくなる。
だから憲法というのは私たちの人権の最後のとりでである。ところが4年間もいすわる憲法を改正しようとする議員を選んでしまった。でも政治家は国民の中にすごい反発が起これば、自分の票に影響するので歯止めにはなる。
私は国際社会にしばしばNGOとして出て行くが、もし9条がなかったら、アジアの中で日本に侵略されたり植民地にされた国々の人は、ほんとに日本を信用しなかったと思う。日本が経済大国になって、なしくずしに自衛隊が増えて行っても、9条があるから、まだ日本は海外派兵をしたり戦争を起こしたりしないだろうと、韓国も中国もいちおう安心をしていたわけである。それをとりはずして、靖国神社にお参りしたら何も歯止めがなくなる。ほんとにこわいことである。
アジアの憲法を研究しているアメリカの学者が、「もし9条がなかったら、アジアの日本に対する憎しみと不信感、好戦的な日本民族というレッテル、日本全土にわたるアメリカの軍事基地化、アメリカと一体化した自衛隊の海外派兵、そして戦争批判ができないメディア、イラク派兵の正当化はもっとすごくなっただろう」と。9条がなくなったら、メディアは絶対に人権や平和についての記事は書かないと思う。
そういうことをしっかり頭において、どうぞみなさん今後もいろんな市民の活動にエネルギーを出してください。地方自治体とは財政負担も押し付けられているが、地方自治の力は、住民が賢ければかなりのところまで発揮できるようになってきた。これはすべての財政負担を地方自治体に押しつけたいというのが本音だが、押しつけるだけではどうしようもないから自由を認めてきた。だから希望は地域にあると思う。永田町ではない。
だからみなさんが今日のような熱意のある集まりに集まってくださったということは価値あることである。
みなさんのご健闘を祈ります。

(文責・竹森絹子)